山添拓歴史

  • 生後5か月頃

  • 一歳すでに「鉄」の兆し有

  • 小学1年生 白馬にて

  • 小学4年生 北海道にて

  • 自転車で旅行中

  • 中学二年生 知床にて

  • 高校二年生 撮影中

  • トマムでスキー

  • 大田朋子さんとの出会い

  • 大学三年生 自治会

  • 大学四年生 全学連にて

  • Peace Night 9

  • ビギナーズネット記者会見

  • 給費制復活アピールウォーク

  • ビギナーズネットで作業中

  • 新婚旅行

  • 修習生仲間と

  • 東京法律事務所の所員と

  • 憲法学習会の様子

  • 判決後の旗出し

  • 東京地方裁判所へ

  • 2015年夏 国会前抗議行動

  • 趣味の鉄道写真

  • 今も山に登ります

京都で生まれる

1984年11月生まれ。京都府向日(むこう)市で育ちました。当時住んでいたマンションからは、東海道本線の線路が見え、歩いていけるところに向日町運転所があり、毎日列車を眺める環境。その結果(?)、小さい頃から鉄道には強い関心を示していたようです。
小学校3年生の時、京都市内に転居。ドーナツ化現象で人口減少が著しかった京都市中心部。京都市立龍池(たついけ)小学校は1学年1クラスで、私の学年は16人。グランドも小さく、市内にはほかに遊ぶところもない。一人に一台割り当てられた一輪車、猛特訓してようやく乗れるようになりました。苦手だった水泳も、臨海学校で遠泳があるというので必死で修得し、なんとかカナヅチを脱却。思い出多い小学校でしたが統廃合の波にかなわず、5年生からは統合後の学校へ(跡地は、京都マンガミュージアムに生まれ変わっています)。

社会を見る目を変えた阪神淡路大震災の経験

1995年1月17日の阪神淡路大震災を経験。京都は震度5でした。京都の被害は少なく、学校も通常通りありました。しかし、なぎ倒された阪神高速や立ち上る火災の黒煙は、テレビ映像を通して強く印象に残っています。しばらくしてから、兵庫県西宮市に住む親戚に支援物資を届けに訪ねました。一瞬にして大勢の人が亡くなるという事態、道路や鉄道、ビルがこんなにももろいものかという驚愕と火災の恐怖。小学生だった私にとって忘れられない、世の中を見る目を変えさせる出来事でした。同じ年の3月には東京で地下鉄サリン事件が起きています。多くの人が震撼する事件、出来事が連続する年でした。
この頃、自宅でひよこを飼っていました。京都市青少年科学センターでもらってきたもの。狭い段ボールで順調に育ち立派なにわとりへと成長。その後は小学校に引き取ってもらい、卵も産むようになりました。卒業後は会えなくなってしまいました。さすがにもうこの世を去ったでしょう…。

陸上部で鍛えられた中学時代

京都市立城巽(じょうそん)中学校へ進学。「城」の「巽」、つまり、二条城の南東方向に位置する学校です。入学した1年生は41人。ようやく2クラスを確保できるという小規模校でした。
陸上部に入部。太っていて体力も決して十分でなかった私は、10台並べられたミニハードルをジャンプしてクリアしていくのがしんどく、ウォーミングアップから息を切らす始末。なんとも情けない気持ちでした。しかし、継続すれば不思議と力がついてくるもので、2年生、3年生と進むにつれて苦手意識は薄れていきました。一人で二条城の周囲を走る自主トレに励んだことも。もっとも、努力することと成果とは別モノ。短距離も長距離も圧倒的にタイムが遅くダメ。結局まともに取り組むことができたのは、円盤投げという中学生にしてはかなりマイナーな種目でした。一人で練習できるので楽しかったですけどね。

「探究」に励んだ高校時代と9.11テロ

中学卒業後は京都市立堀川高校へ。自宅から近いということの他に、新しく設置された「探究科」というコースに惹かれて選択。京都府全域から生徒が集まるこの学校では、刺激的な経験がいくつもありました。「探究基礎」というゼミナール形式の授業は、生徒も運営にかかわります。私が取り組んだのは、「京ことばの歴史」というテーマ。受験勉強一色ではない学校生活は、いま思い返しても充実していたと感じます。
2001年9月、高校2年生の秋に起きたのが9.11テロ事件。実はその半年前に、高校の研修旅行でワシントンを訪れたばかり。それだけに衝撃は大きく、さらに「テロとのたたかい」に踏み出し武力行使を辞さないというアメリカにも驚きました。政治と経済の中心として一種のあこがれを抱いていたアメリカに対する見方を変えた事件であり、当時教科書のなかで学んでいた世界史と現在とが目の前で結びついた時でもありました。

東京へ──日本共産党との出会い

2003年、東京大学に進学。将来は法学部に進みたいという希望があり教養学部文科一類へ。当時は明確に弁護士志望だったわけではなく、外交官とか国連職員とか新聞記者とか、どんな仕事にどうすれば就けるのかということに興味を持っていました。ただ、法律を学びたい気持ちだけはあり、第二外国語はドイツ語に。日本の法律はドイツにならって作られたという半端な知識ゆえの選択でしたが、さっぱり上達しませんでした。
ちょうどイラク戦争が開戦する頃。アメリカがどうやら先制攻撃の戦争を始めたらしい、小泉政権の日本もそれに賛同し協力するらしい――。世界史を学ぶ中で、紛争の平和的な解決、戦争の違法化が世界の流れだと思ってきたのに、無法な戦争が始まろうとすることに強い憤りを覚えました。そしてそういう世界を変えたいと思っていました。しかし、一人で何ができるか。
そんななかで出会ったのが、大学で活動していた民青同盟や日本共産党の先輩たちでした。イラク戦争に反対して署名を集め、集会やデモが開かれる、参加してみないかと誘われて行ってみると、私と同世代の人がマイクをもって発言しています。おかしい世の中に対して自分たちで学び考え、そして声を上げる、社会に対して主体的にはたらきかける若い世代がいることに、新鮮な驚きがありました。私が大学で出会いたかったのはこういう人たちだと思いました。同時にそれは、それまでなんとなく信頼を寄せていた日本共産党との、自覚的な出会いでもありました。

学費負担の軽減を、核兵器のない世界を

学生生活は、学生自治会の運動が中心でした。教養学部の自治会委員長は、全学部生の直接投票で選挙を行います。国立大学が法人化された頃のこと。法人化を機に学費値上げは許されないと声を上げました。自治会の役員を担ってくれる仲間とともに、学部交渉を行い、便乗値上げはなんとか阻止。その後も後輩たちが粘り強い運動を続けた結果、東大では2008年から、世帯年収400万円以下の家庭の学生について授業料の無料化措置がとられます。動けば変えられるという、大事な経験を共有したように思います。
2005年に法学部へ進学。そろそろ司法試験の勉強でもしようかと思っていたこの年5月、NPT再検討会議でニューヨークへ行きました。折しも被ばく60年。これを機に、学生のなかで核兵器廃絶に向けた運動をもっと広げたいと思うようになります。東京から広島・長崎での原水爆禁止世界大会に大勢の学生を派遣しようと、取り組むことにしました。100名以上による学生ツアーは大盛況、苦労して報告集も作った思い出があります。この時、都立大学から参加していたのが、現在のパートナーである大田朝子です。
大学卒業前には、第一次安倍政権の下で進められた教育基本法の改悪に反対する運動にも取り組みました。教育における憲法と言われるこの法律の改悪は、まさに改憲の先駆け。愛国心の強制をはじめ教育内容への国家関与を強め、教育の自由も教育を受ける自由も踏みにじるもので、廃案を求める声が広がりました。12月の強行採決は本当に悔しかった。

Peace Night 9で切りひらいた学生の立ち上がり

学生自治会・全学連の運動にかかわりながら進路を考え、考えた末に司法試験受験を目指し、早稲田大学の大学院法務研究科(いわゆるロースクール)へ。初めての私立。大学が配る文書が西暦表記となっているのももの珍しく感じました。
ロースクール1年目に取り組んだのが、都内各大学の九条の会による学生のイベント、Peace Night 9(ピースナイトナイン)です。2004年に作られた九条の会は、全国各地に拡がり学生のなかでもつくられました。各大学で創意工夫がされていましたが、しかしもっと大きな取り組みで学生の姿をアピールしたいと考え、共同するイベントで学生の声を上げようと企画を立ち上げ。はじめは十数人の実行委員会。企画の趣旨、一致点は何か、ターゲットは誰かなど、位置づけそのものを考えるのにも時間をかけ、さらにどんな企画にするか、どうやって見せるか、いかに宣伝するかなど作り方にもこだわりました。記者会見を行い、パンフやフライヤーを作成、賛同してくださる学者の先生を募り、早稲田でも学生にアンケートをとって九条についての意見を問うたりしました。
長い準備期間を経て実行委員も増やしながら迎えた本番、故加藤周一さんの講演をメインとした企画には、各地から1100人が集まりました。もちろん全部が学生ではなかったですが、しかし若い世代が圧倒的に多数を占める、九条の会の新しい動きを作った取り組みでした。加藤周一さんの講演タイトルは、「老人と学生」。閉塞感漂う日本社会を動かすのは、かつて労働運動や平和運動で歴戦の経験を持つ世代と、若い学生世代の連帯だと、私たちを励ましてくれました。それは、この間の安保法制阻止に向けたたたかい、そして安保法制の廃止に向けたたたかいにおける世代や属性を超えた主体の拡がりを予言したものだったと思います。
このPeace Night 9は現在も続き、2015年12月には第7回の企画が取り組まれました。

司法試験受験、「給費制」の維持・復活を目指す

2010年に司法試験を受験。試験を終えた後、司法修習生に対する給費制維持のための運動にかかわります。
法律家になるには、司法試験に合格した後、司法修習という約1年間の研修を受ける必要があります。裁判所、検察庁、法律事務所で法曹三者の役割を実地で学び、三者三様のマインドを知ります。統一修習によりそれぞれが人権擁護に不可欠の役割を負っていることを体得します。この司法修習、専念義務が課され兼業も禁止されるため国が給料を支払ってきました。ところが給費制を廃止し、必要な人は借金をするという貸与制への移行が予定されていました。
この給費制廃止を食い止めようと立ち上がったのが、日弁連。当時その会長だったのが宇都宮健児さんです。私たち受験生は、若手弁護士の先輩とともに「ビギナーズ・ネット」という当事者団体をつくり、給費制の維持のために運動を繰り広げました。すでに奨学金という名の多額の借金を背負っている人も多いなか、お金がなければ法律家になれない事態を許していいのか、市民のための法律家を育てることができるのかなど、法曹養成のあり方について問う運動にもなりました。署名を集め、街頭で宣伝し、デモも何度も行い、その結果、修習開始の寸前に1年間ながら給費制を維持することもできました。
もっともその後、貸与制が導入され、現在も抜本的な改善はされていません。いまも続く給費制復活を目指す運動。私は今度、政治の場で取り組みたい。

福島原発事故と弁護士活動のスタート

2011年、司法修習中に発生した3.11。地震と津波による未曾有の被害、さらに、目に見えない放射能の汚染による想像を超える被害――被害の全貌が明らかになるにつれて、とりわけ東京電力福島原発事故の被害回復には、司法の場でたたかうことが必要だと感じました。福島原発事故のその年に弁護士登録した者として、この事件に向き合い取り組むことは、私たちの世代の弁護士としての役割だと考えました。弁護団に加わり、被害者の声を聞きつつ国と東京電力の責任を追及することに力を注ぎたいと決意しました。
福島には毎月のように通ってきました。私が担当していたある原告の方は、原発が立地する双葉町にお住まいでした。警戒区域のなかの自宅に入るには、白い防護服に身を包み、自宅から持ち出した物もスクリーニングを受けなければなりません。住み慣れた地域は、いまも人が住むことができず荒れ果てた姿が広がる。地震に耐えた築100年以上の立派な自宅は、人々の避難後に周辺から逃げ出した家畜によって荒らされ倒壊してしまいました。それでも被害者にとってはかけがえのない自宅でありふるさとであり、必ず戻りたいという思いを抱えながら、ふるさとと、そこでのくらしと、そこでのつながり、すべてを奪われたやり場のない怒りと悲しみを抱えています。
国と東電は、被害区域を線引きすることで被害者を線引きし、被害者の声に耳を傾けることなく被害賠償の内容を決めつけます。加害者が被害賠償を決める姿勢に、不満と批判が高まるのは当然です。しかも国も東電も、裁判のなかで事故の責任を一切認めようとしません。事故は想定外だったと繰り返し、認識していた事実をどこまでも矮小化します。実際には、3.11の10年近く前から、福島原発で過酷事故をもたらす津波が発生することは十分に予見することが可能でした。国も東電もそのことをわかっていながら、責任回避に必死です。そんななかでの原発再稼働などもってのほかです。
私は、福島原発事故の被害賠償事件に取り組みながら、最終的には政治の転換が必要であることを常に意識してきました。原告団、弁護団に共有されている思いでもあります。原告のみなさんと悩みつつたたかってきた経験も生かして、政治を変えることによる解決を、目指していきたいと考えています。

労働事件に労働者の立場で

私が弁護士になることを志したのには、いくつかの理由があります。その一つが、労働者の権利を保障させる仕事がしたいという思いでした。ロースクール生だった2007年、青年法律家協会の企画でJALの労働組合を訪問。職場を見せていただくとともに、組合差別とたたかう労働組合の姿に触れました。少しのミスや事故が文字どおり命取りになる職場。労働者の権利を守ることは空の安全を守ることだという姿勢に、労働組合の矜持を見た思いがしました。同時に、労働組合とともに歩む弁護士の存在を知り、こうして労働組合と労働者の運動をともにする仕事に携わりたいと思ったのが、目指す弁護士像の一つとなりました。
弁護士登録後に入所したのは東京法律事務所。労働者をはじめ「人とくらしのパートナー」として60年活躍してきた事務所です。入所直後から、様々な労働事件に関わることができました。いわれのない解雇や賃下げ、非正規労働者の事件、残業代請求、過労死や過労自死の事件。どれをとっても、人間らしくはたらくルールが守られず、人をモノのように使い捨てにする現状に行き当たります。しかし、労働者とその家族の命と健康が十分に保障されないもとで、社会の発展はあり得ないと思います。
命とくらしを脅かすのが企業のやり方なら、それをきちんと規制してこそ政治の役割を果たしたといえる――ところが安倍政権は、「企業が世界で一番活動しやすい国」を掲げて大事な労働法制を次々破壊し、正社員ゼロの派遣法改悪、残業代ゼロの過労死促進法、首切り自由の解雇の金銭解決制度など、「企業のための労働法づくり」を露骨に進めています。
労働事件に労働者の立場で取り組んできた者としても、安倍政権の暴走を許すことはできません。サービス残業なくし割増賃金を増額する、正規と非正規の均等待遇、最低賃金の引き上げなど、政治が変わることで変えられる問題がいくつもあります。労働者の権利を前進させる政治を、縦横に進めたい。

趣味──鉄道、登山、スキー

いくつかありますが、とりあえず登山とスキー、鉄道写真かな。
山好きの父に連れられて嫌々歩いていたのが、いつの頃からか転じて北海道や日本アルプスを好むようになりました。槍・北穂間の大キレットはいま思い出してもスリル満点!また行きたいです。
かつては「乗り鉄」でしたが高校生ぐらいから行動範囲の広がりとともに撮る方がメインに。朝陽を浴びて走る寝台特急を収めようと全国各地に足を伸ばしましたが、夜行列車の衰退で撮るものがなくなってきたのは残念な限り。新幹線の整備によって、ローカル線をはじめ各地で地域の足が切り捨てられています。人にも環境にも優しい鉄道の役割は、もっと重視されてよいと思います。